『平家物語』 木曽義仲の最期 後半 現代語訳 おもしろくてよくわかる現代語訳

『平家物語』 木曽義仲の最期 後半の原文冒頭

今井四郎、木曾殿、主従二騎になつてのたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。何によつてか、一領の御着背長を重うは思しめし候ふべき。それは味方に御勢が候はねば、臆病でこそさは思しめし候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎と思しめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害い候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平はこの敵防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ。」とて、馬の鼻を並べて駆けんとし給へば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは

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『平家物語』 木曽義仲の最期 ここまでの歴史

このお話のような軍記物語は、史実に沿って書かれています。
だから、歴史を理解してから読むとよくわかります

ちょっと長いですが、
ここまでの経緯をまとめましたから、
まずはこれを読んでから訳に進みましょう。

『平家物語』木曽の最期 木曽義仲のわかりやすい 歴史 古文を読むために

この話は鎌倉幕府成立直前
栄華を極めた平氏に打ち勝って、
本格的な武士の時代が始まるほんの少し前のことです。

貴族政治時代に重要だったのは人脈と智謀。それに加えて武士の時代は武力に勝らないと勝負になりません。強い武力を持ちながらも、人脈形成が下手な上に策略下手の木曽義仲が、せっかく掴んだ念願の立場を、短い間に失うことになってしまう。貴族と武士の狭間に生きた一人の武将の死に様がこの「木曽の最期」です。

木曽の勇者義仲が最期どのように戦ったのか、とっても気になりますね。

『平家物語』 木曽義仲の最期の超現代語訳

当時の戦いは騎馬戦。
馬を操って、槍や刀で戦います。

今井四郎兼平と木曽殿と最後は主従二騎だけになった。
木曽殿はおっしゃられる。

「日ごろは何とも思わぬ鎧が今日は重くなったぞよ」

今井四郎兼平が申し上げた。

「殿はまだお体もお疲れになっておられません。
御馬(おんま)も弱ってはございません。
どうして一着の鎧ごときを重う思われることがありましょうか。
それはきっと味方に軍勢がおりませんので、
気遅れてそう思われるのでございます。どうか殿、
今は兼平一人ではございますが、
後ろに、武者千騎とお思い下さいませ。

私、矢が七つ八つございますので、
しばらく防き矢差し上げます。

あれに見えますのは、
有名な粟津の松原と申します。
あの松の中でなら人目にもつきますまい。
どうぞ立派に御自害なさいませぇ」

とて、馬に鞭打って行く間に、また新手の武者五十騎ばかりが出て来た。

これは殿のご自害が成立しないと判断した兼平は言う。

「殿はあの松原へすぐにもお入りなさいませ。兼平はこの敵防いでみせましょう」

それに応えて木曽殿がおっしゃる。

「義仲、都にてどんな運命も甘んじて受けるつもりでおったのだが、
ここまで逃げて来たのは、
お主と同じ場所で一緒に死のうと願ったからなのじゃ。お主と別々の場所で撃たれるのならば、
いっそ今ここで一緒に討ち死にする」

と兼平の馬と鼻を並べて走り出そうとしなさる。
兼平はさっと馬から飛び降りて、
主人の馬の口をひっ捕らえて申し上げた。

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「殿、申し上げます。武士というものは、
どんなに日頃高名がございましても、
最後の時が潔くなければ、
末代までの名折れとなってしまいます。

殿はお疲れになっておられます。
後に続く味方はございません。

敵に邪魔されて、
名もない者の家来に組み落とされて、
討たれなどなさったら、
『あれほど日本の国に名を馳せた木曽殿を、
おれさまの家来がお討ち申した』

なとど申すようことがあれば、
それがし悔しくてたまりません。

どうかこのままあの松原にお入りなさいませ」

と申したところ、木曽殿は兼平の気持ちに応えて

「それほどお前がいうのならば」

といって、粟津の松原へ駆け入りなさった。

一方、兼平はたった一騎で五十騎ほどいる中に駆け入って、
鐙に踏ん張って立ち上がり、
大音声で名乗りをあげた。

「お前たち、
日ごろは噂に聞いているだろう。さあ今こそはご自分の目で見られよ。

木曽殿の御乳母子、
今井四郎兼平、生年三十三になり申す。

こういう者がいることは、
頼朝様までもご存じのはずじゃ。

それ、兼平を討ってこの首をご覧に入れてみよ」

と言って、射残した八本の矢を、
次々と弓につがえて容赦なく射る。
相手の死生はわからないが、
たちまちに敵八騎を射落とした。

その後、太刀をぬいてあちらで討ちあい、
こちらで討ちあい、ばっさばっさと切って回る。
顔を合わせる者もいない。

多くの敵をやったのだった。

敵どもは「射殺せよ。」
と言って兼平をただ中に取り囲んで、
雨の降るように矢を射るけれども、
鎧が良いので裏まで通らず、
隙間もないので、
傷さえも負わないのであったよ。

木曽殿はたった一騎で、
粟津の松原へ駆けなさるが、
正月二十一日、
日の入り際のことなので、
松原には薄氷が張っていた。

木曽殿はそこに沼田があるとも知らないで、
馬をざっと乗り入れたらば、
みるみる沈んで馬の頭も見えなくなってしまったのだ。

木曽殿がどんなに鐙で馬を蹴っても、
鞭を討っても打っても馬は動かない。

木曽殿は兼平の行方が心配になって、
ふっと振り向いたその瞬間、
内甲を射抜かれてしまったのだ。

重傷になったので、
兜の鉢を馬の頭に当ててうつ伏しなさっていたところに、
石田の家来が二人落ち合った、

つひに木曽殿の首を取つてしまった。

石田の家来どもは、
木曽殿の首を太刀の先に貫き、
高くさし上げ、大音声を挙げて言った。

「近頃ずっと日本国に名を馳せていらっしゃった木曽殿をば、
三浦の石田次郎為久が討ち申し上げたのじゃ。」
と名乗りを上げると、

兼平は敵と戦っている最中であったが、
これを聞き、

「今は誰をかばおうとして戦えばよいのか。
これを見なされ、東国の方々よ。
日本一の剛毅な者が自害する手本じゃ。」

といって、

太刀の先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ち、貫かれて死んでしまった。

こうだったから粟津の合戦はなかったのである。

先生の感想*軍記物はぜひ音読を*

先生
軍記物、特に平家物語のこの部分は、
音便が多用されているなど、
琵琶法師の語り口調で書かれています。

ですから、現代語訳を読んだ後は、
原文を何度も音読することで、
当時の語りのおもしろさを体感することができます。
訳にしてしまうともったいない感じがします。

木曽義仲はあっぱれ、
そして義仲を最後まで気遣う幼少期からの家臣兼平の忠信の強さ。

心の深いところにじんと入ってくる作品です。

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