『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母と兼家との恋のやり取り

なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる

百人一首にこの歌がとられているのが『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母。
夫への深い愛や嫉妬などにあふれた日記をしたためています。
ここから、当時の人々の恋模様をうかがい知ることができます。

夫兼家とは

ところで、藤原道綱母の夫兼家とは、どのような人物だったのでしょうか。

この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることのなきと思えば

この歌で知られる我が世を謳歌した人物が藤原道長。藤原道長の父親が兼家です。

『大鏡』肝試し道長の豪胆で、まだ息子たちが一角の身分を持たない頃、親戚筋の藤原公任とわが息子たちを比較して嘆いている場面があります。この後、藤原道長は押しも押される権力者となっていくのですが、その礎を築いたのが父親である兼家だと言えます。

このあたりの人物関係は、知れば知るほどおもしろいところですが、ここでは兼家の妻のひとり藤原道綱母と兼家との関係に話を戻します。

平安時代の結婚制度

当時の結婚形態は、一夫多妻制で、妻の家に夫が通う通い婚。
しかも、通ってくる時間はほとんどが夜。

夫が来てくれなくなると、恋が冷めてしまったのかと不安になるのが妻。
夫が頻繁に通ってくれれば、夫の愛は深いことになり、まったく来てくれなくなれば、夫は妻に飽きて見捨ててしまった、ということになります。

夫をつなぎとめるために、自分の器量を磨いて自身の魅力を高めなければなりません。そのうちの重要なものが歌。歌が上手でなければなりませんでした。

また、藤原道綱母は、絶世の美女だったともいわれています。
その美貌と歌のやり取りの機転で、兼家の心を射止めた彼女ですが、兼家の足が遠のくごとに、そのことを嘆く歌をたくさん詠み『蜻蛉日記』という日記にしたためています。

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藤原道綱母の立場

ところで、兼家の浮気を嘆く歌をたくさん詠んでいる彼女ですが、藤原道綱母は兼家にとって、どのような立ち位置にあったのでしょうか。

兼家には本妻として、時姫という妻がいました。
時姫は、藤原道綱母よりも実家の格式が上でした。

当時は、実家の権力がそのまま妻の地位に反映します。
また、そうでなければ争いの種にもなってしまいます。

『源氏物語』の冒頭、光源氏の母桐壷の女御が、帝からたいへんな寵愛を受けながらも周囲のいじめにあって衰弱して死んでしまったのは、桐壷女御の実家の地位が十分ではなかったためです。帝は、お仕事として実家の地位の高い順に妻を寵愛しなければならないというのが、当時の常識でした。それに逆らって、実家の地位の低い妻に、強く心を通わし寵愛してしまうと、政治的なバランスが成り立たず、みな不幸になってしまうのです。

藤原道綱母の場合も、実家の権力から考えると時姫にはかないません。

ですから、彼女も時姫には一目置いていたはずです。

けれども、日記の中では、まるで自分が兼家にとって一番!
兼家が他の女のところに行くなんで許せない!
といったていで書かれています。

藤原道綱母は、絶世の美女と自他ともに認めているばかりか、歌の教養や機転にも自信があり、たいへんプライドの高い女性だったようです。
そのエピソードのひとつが 「うつろいゆく菊」のくだり。

『蜻蛉日記』うつろひたる菊 現代語訳 藤原の道綱の母作 おもしろい よくわかる古文  

次は、藤原道綱母と兼家がラブラブだった頃の歌のやり取りや、
兼家からの愛情が終わってしまったこと・・・。

道綱母が「遠くに引っ越してしまわなくてはならなくなったわ。あなたが来てくださるには遠すぎるわね。」
と兼家に伝えると、非情にも
「ほんとだね。そんなに遠くてはもう会いにもゆけないね。」
という返事が来て、ふたりの仲は終わりになってしまったことなど・・・。

について書いてみたいと思います。

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